プロフィール
司法試験考査委員(2014年・2015年)、ワシントン大学ロースクール客員教授(2017年)などを歴任。現在、一般社団法人ピープルアナリティクス&HRテクノロジー協会理事、総務省「プラットフォームサービスに関する検討会」委員、経済産業省「データの越境移転に関する研究会」座長、総務省「AIネットワーク社会推進会議・AIガバナンス検討会」構成員などを務める。
情報ネットワーク社会、AIネットワーク社会を迎えた今、私たちは日常的に、あるいは気づかないうちに自分の情報を第三者に提供しています。さらには、AIによって分析・評価され、自分の意思決定が知らず知らず操作されている可能性もあります。山本教授は、進化し続けるネットワーク社会においてプライバシーの保障の意義や問題点の研究に取り組んでいます。
デジタル社会に適応した
プライバシー権を
――受賞業績である「プライバシー権の理論的研究」についてお教えください。
プライバシー権の定義については多くの議論があります。家の中に他人が土足で踏み込んできたら驚きますし、精神的な苦痛を感じるでしょう。実害があります。このようなプライバシー権侵害を「激痛系」と呼ぶことができます。一方で、自分の個人情報が知らぬ間に第三者に提供されていた場合は、即座に激痛が走るわけではありません。自分に関する情報が誰かに、どこかで分析され、評価されている。モヤモヤとした感覚、痛いとしても「鈍痛」のようなものでしょう。それが本当にプライバシー権の侵害にあたるのか。
日本では1970年代になってから自己情報コントロール権※への関心が高まっていきました。国や企業が大量の情報を処理することが問題視されるようになり、プライバシー権を捉え直すべきだという考えが広まったことによります。私は、現在のデジタル社会に適応するよう、この自己情報コントロール権をアップデートするための研究に取り組んできました。旧来の考え方では自己情報を実質的にはコントロールはできないからです。
例えば、現在では個人情報の収集や利用に関する「同意」が形骸化しています。ネットを見ていても、プライバシーポリシーを最初から最後まで読む人はほとんどいないでしょう。飛ばし読みして、あるいは全く読まずに「同意しました」のチェックボックスをクリックしてしまう。頻繁に求められるので、多くの人が「同意疲れ」してしまい、本人の利益に反する同意をしてしまう恐れがあります。
また、情報が瞬間的にやり取りされるのが当たり前の世の中なので、一つ一つの情報を個人がコントロールするのは現実的ではありません。よりユーザーフレンドリーなUI※にするのはもちろん、ルーティンの同意は信頼できる外部機関にアウトソースするなど、自己決定を実質化するための仕組みづくりが大切です。情報が適切に扱われているかを監督する機関を設けることも必要でしょう。情報管理の構造やガバナンスが適切なものでなければ、自己情報コントロール権は絵に描いた餅になってしまいます。そこで、適切なUIやシステム構造のデザインを積極的に促していくような自己情報コントロール権の考えを私は提唱しています。
自己情報コントロール権……自分の情報を誰とどこまで共有するのかを自ら主体的に選択・決定できる権利。この権利は、事業者などに対し、自己の情報に関する個人の主体的選択を可能にする「仕組み」や「構造(アーキテクチャ)」のデザインを要請する。
UI……User Interface(ユーザーインターフェース)。ユーザーと製品・サービスの接点。
流れを変えた「住基ネット判決」
――この研究に取り組むことになった経緯を教えてください。
きっかけの一つが平成20年の「住基ネット判決」です。政府が作った住基ネットがプライバシー権を侵害して違憲か合憲かが争われました。この際に最高裁が行ったのが「構造審査」です。住基ネットシステムの構造の堅牢性を審査して、情報漏えいの具体的な危険があるかを検討しました。結果としては「危険はない」と判断され合憲となりましたが、この判例の面白い点が、裁判所が情報のシステム構造をチェックした、という点です。プライバシー権侵害における判例では、情報を取得する段階での侵害性が争われることがほとんどでしたが、このケースでは、情報を取得した後の管理構造を裁判所がチェックしています。ここまで直接的に「取得後」の仕組みを審査したのはおそらく前例のないことであり、自己情報コントロール権が新たな段階に入ったことを感じ取ることができました。
もう一つのきっかけは、社会における同意の現状に対する危機感です。ユーザーフレンドリーな構造がなければ自己情報コントロール権は実効性がありません。むしろ「同意しましたよね?」と、本人利益に反する使われ方をされる恐れがあり、情報を乱用する側の免罪符になってしまいます。そのようなことが起きないよう全体の仕組みを整えていかなければなりません。
情報をシェアする範囲を自分で決める
――自己情報コントロール権を実効性あるものにするために山本教授が重視することは何ですか。
繰り返しになりますが、どこまでの情報を誰と共有・シェアするか、その決定権が個人にあることが重要だと思っています。家族と共有する情報、友人と共有する情報、同僚と共有する情報、我々は区別していますよね。誰と何を共有するかを決定できることがプライバシー権の本質であると私は捉えています。
この人、この事業者とは共有したくないのに、無理やり共有されたりすることがプライバシー権侵害の典型ではないかと、自分の情報をAという会社とは共有してもよい。一方で、Bという会社と共有するつもりはない。しかし、AからBに情報が提供されることについてはプライバシーポリシーに「人知れず」書かれてあるだけで、事実上本人が共有範囲について考える余地なく、B社で不利益な使われ方をされてしまう。このようなことが起こりうるのが現在の社会です。
そして私が最も重視しているのがプロファイリングの問題です。自分が買った本の情報はネット書店と共有してもよいかもしれない。しかし、本の購入履歴から自分の政治的な信条や知能に関する情報がAIによって割り出され、勝手に共有された場合はどうでしょう。プロファイリングについても一定の説明が必要でしょうし、分かりやすいUIを組む必要があると思います。同意を取る際のUIも、情報を取得した後のシステム構造も、本人の自己決定を実効化できる構造になっていることが重要です。
ディストピア的な発想ですが、人間がネットワークの中に埋め込まれ、情報有機体として存在し、AIの中に組み込まれて主体性を失う。人間存在が、AIが最適解を算出するための「手段」として道具化・客体化する。そのような世界がやってくるかもしれません。個人が存在を主張し続け、主体性を失わないためには自分の情報をコントロールすることを基本的人権として捉えることが重要です。
意思決定が操作されてしまう時代
――今後特に力を入れたい研究テーマ、関心をお持ちの分野をお教えください。
認知過程をどう守るか、に関心があります。現在、認知科学が急速に発展しています。これは心理学や神経科学、行動経済学などが組み合わさった領域です。サイコグラフィックスというマーケティングの手法をご存知でしょうか。英国の選挙コンサルティング会社が、Facebookのデータを利用してフェイクニュースに対する個人の脆弱性をスコア化し、スコアの高い人をターゲティングしてフェイクニュースを送って投票行動を操作したと言われています。このようなことができてしまう世の中になっているのです。人の認知過程を分析し、操作する技術や手法がすでに存在し、活用されています。本人は自分で決めたと思っていても、実は認知過程への介入があり、他者決定になっているかもしれない。自律的な認知過程をどう守るか、それが世界的な課題となっています。人の認知領域を「陸・海・空・宇宙・サイバー」に続く「第6の戦場」ととらえ、他国によるプロパガンダを、この領域に直接働きかける「認知作戦」と呼ぶ識者もいます。欧州委員会は、昨年、AI規則案の中に、人の潜在意識にサブリミナル的に不当な働きかけをするAI利用を禁止とする項目を盛り込みました。米国でも、科学技術政策局が提案した「AI権利章典」の中で、生体データから感情を推論することに注意を促しています。ますます進むデジタル社会に合わせて自己情報コントロール権をアップデートしていかなければなりません。
デジタル技術によって社会はものすごいスピードで進化していきます。社会が今後どのように変わっていくのか誰も明確なビジョンを描けてはいません。憲法は大きな視点で物事を捉えることができる学問領域です。憲法に依拠した、「デジタル基本権」を尊重する社会を作っていくための研究に力を入れていきたいと思っています。
――KDDI Foundation Awardを受賞されたご感想を教えてください。
とてもうれしく思っています。研究者を表彰する制度はそう多くはないので、このような賞をいただけることは大きな励みになります。家族に自分の手柄をアピールできる、という点も大きいですね。私が普段から忙しそうにしているのを見て、妻は「何をしているんだろう?」と思っているようです。この賞をいただけたことで家庭内での私のポジションも上がるのではないかと期待しています(笑)。
――KDDI財団についてどのような印象をお持ちでしょうか。
研究者に優しい、研究者を育てる財団だと感じています。萌芽的な研究も含めて広くアンテナを張っており、これから社会に必要とされるテーマを見つけることにとても長けておられます。認知過程の研究では、脳科学と法学を組み合わせるなど文理融合が進んでおり、学問領域をまたいだ新しい研究が始まろうとしています。若手の研究者も注目しています。今後は、新たな分野にもお力添えをいただけるとうれしく思います。