プロフィール
2003年 シカゴ大学経済学部卒業、同年よりカンザスシティ連邦準備銀行調査部アシスタントエコノミスト。2012年 ニューヨーク大学Ph.D.(経済学)取得。同年より連邦準備制度理事会(FRB)調査部エコノミスト、同シニアエコノミスト、同主任エコノミストを経て、2020年4月より東京大学大学院経済学研究科および公共政策大学院准教授。専門はマクロ経済学、金融政策。2021年以降、感染症対策と社会経済の両立に関する研究に従事。
2020年初頭から始まった新型コロナウイルス症(COVID-19)によるパンデミックは、世界中の人々に大きなインパクトを与えました。多くの国で外出制限やロックダウンなどの措置が取られ、社会経済の停滞が発生したことは記憶に新しいところです。コロナがいつ収束するのか、その時に社会はどう変わっているのか、先の見えない不安な状況の中、仲田泰祐先生が取り組まれたことは、「感染抑制と経済活動の両立」に関する研究でした。数理モデルを用いて疫学と経済学の分野横断的な分析を進める手法は、パンデミックに対する政策分析にも活用されています。
疫学と経済学を融合し、
感染抑制と経済活動を同時に分析する
――先生の研究分野とは経済学とお聞きしています。
もともとマクロ経済を専門としており、アメリカFRB(金融制度準備委員会)で中央銀行の金融政策を研究していました。2020年3月末に日本に帰国する際、新型コロナウイルスがパンデミック状態となっていて、その年の年末から「感染抑制と経済活動の両立」というテーマでパンデミック政策に関する分析を始めました。2022年頃までは研究のほとんどをパンデミックの分析に費やしていましたが、現在はマクロ経済とパンデミックの研究にそれぞれ半分ずつ取り組んでいます。
――パンデミックの研究は、もとから予定されていたのですか?
日本に生活拠点を移したのは現職に就くためであり、自分がパンデミックの分析に携わることになるとは考えていませんでした。しかし、2020年末になるとコロナ感染の第3波が起きて感染者が急増し、Go Toトラベルも中止されました。政府が「2回目の緊急事態宣言を出すべきか」という難しい局面に直面していたことから、取り組んでみることにしたのです。
最初は、同じ大学に所属する藤井大輔さんと私の二人でスタートして、「この分析を基に論文を1つ完成させてみよう」といった考えだったのですが、2021年に入るとすぐに大阪大学の大竹文雄さんとつながり、「第2回緊急事態宣言をいつ解除すべきか」というシミュレーション分析の依頼を受けました。
――実際にどのようなことをされたのでしょうか。
例えば、AとBどちらを選択するかという意思決定を行う際、それぞれ選択した場合の見通しがあると、判断の参考材料となります。第2回緊急事態宣言の解除時期についても、この時期に解除した場合、感染や経済がどのようになるのかといった見通しがわかれば、政策決定に役立つと考えられます。
政策に携わる人々には、パンデミックの危機に直面しながら意思決定を行うことが求められます。感染抑制と経済活動を両立させるために、できるだけタイムリーにさまざまな分析や意見、考え方などを知りたいところですが、当時は感染と経済の両方を考慮した分析が存在していませんでした。その点では私たちの研究が、必要な情報を知りたいというニーズに応えられたのではないかと思います。
――感染と経済の両方を同時に分析された点が、先生の研究の大きな特徴なのですね。
疫学データサイエンスの分野で、感染症の数理モデルを使った分析が発信されていましたが、この場合、数理モデルの重要なパラメーターは時間不変であると仮定されています。私たちの分析でも、疫学でスタンダードなSIRモデル(感染症モデル)を使用していますが、どのように活用するかという点で経済学者としての知見が役立っています。
パンデミックを経験してお分かりのとおり、感染状況や外出制限などによって人々の行動は変化します。このような人々の動き(モビリティ)を感染症モデルに取り入れることは、人間の行動を学問の対象として捉える経済学からの発想です。その上で感染と経済の見通しを同時に立てるという点を高く評価していただいたのだと思っています。
現場の求められる情報を
スピーディーに届ける
――メディアやウェブサイトなどで、積極的に情報発信されてきました。スピード感も大切にされていたそうですね。
多くの人々が感染抑制と経済活動の両立を模索する中、その道標となるようなモデル分析を提供したいという思いから、『コロナ感染と経済活動』という専用サイトを立ち上げ、毎週情報を更新していました。そこで大切にしていたことは、現在進行形の経済モデル分析であることです。学術研究では厳密さが求められ、経済学の分野でも一つのプロジェクトに5年、10年かけることは珍しいことではありません。もちろん、時間をかけて厳密な分析を発表することは大変価値のあることです。しかし、パンデミックの分析に関しては、時間をかけて丁寧に分析していたら、発表前に状況が変わることもありえます。現場の人たちの政策判断、意思決定の参考資料となるためには、スピード感をもって活動し、発信することが必要でした。
しかし、人類が世界規模のパンデミックを経験したのは、1918年のグレートインフルエンザ以来です。100年以上前のことであり、ウイルスの種類が違えば、当時と今では人々の行動も違います。つまり、参考にできる過去データはほぼ存在しないのです。
それでも、真実が短期間には解明できないことを受け入れた上で一つの手法にコミットし、定期的な分析を行いました。定期的に行うことで、その手法の強み、弱みが徐々に見えてきます。逆に言えば、継続的に観察しなければ、最適な方法を見極めることができません。毎週、定期的に更新を続けた背景には、このような目的もありました。
感染と経済は
必ずしもトレードオフの関係ではない
――分析を進める中で特に印象に残ったのは、どんなことですか?
第2回緊急事態宣言の解除時期で分析後に気づいたことが、「感染と経済は簡単なトレードオフの関係ではないかもしれない」という点です。例えば、緊急事態宣言の期間が長引けば、短期的に経済にとっては良くないけれど感染抑制には効果的です。一方で、早く解除すると経済にとってはプラスですが、すぐに感染者が増えてしまう。このように一方が良ければもう一方が悪くなるというシンプルなトレードオフが成り立っています。
ところが、中長期的な視点では、少し事情が異なることがわかってきました。例えば、ワクチン大規模接種後で状況を考えてみましょう。緊急事態宣言で感染が抑制されれば、短期的な死者数は抑えることができます。ところが、集団免疫獲得までに必要な感染者数を減らすことができません。したがって集団免疫獲得まで何度も緊急事態宣言を出す必要が出てきます。経済に大きなダメージである上に、感染による人的被害は中長期的には減少できません。
パンデミックの分析では経済学では目にしないような要素が出てきます。例えば、ワクチン接種という大きなゲームチェンジャーや、病床のキャパシティリミットなどはトレードオフに影響するパンデミック独自の可変要素です。一見シンプルなトレードオフに見えますが、実はそうではありません。パンデミックのこれらの現象は、感染症独特のダイナミクスが関係していると思われます。
一人一人の価値観によって
感染抑制と経済活動は左右される
――シミュレーションの中で国や地域による違いも興味深いものでした。
感染抑制と経済活動のバランスをどのように取るべきかは、人々の価値観が関わってきます。ここでいう価値観とは、「コロナを抑制するために、経済活動をどれくらい犠牲にしてもいいか」ということです。それを分析するために、コロナによる死亡者数を感染抑制の指標に、GDPを経済活動の指標として、さまざまな国や地域の評価を行いました。
よく知られていることですが、イギリスをはじめとした欧米諸国は経済損失、死者数ともに多く、日本は欧米諸国に比べるとどちらの指標の数値も低く抑えられていました。また、各国のデータを「顕示選好※」という考え方で分析した結果、それぞれの価値観の違いが明らかになりました。コロナによる死者数を1人減らすためにどの程度の経済的犠牲を許容できるかを算出してみたところ、日本は約20億円、アメリカは約1億円、イギリスは0.5億円という結果でした。算出結果はシミュレーションの仮定によって変化しますが、さまざまな条件で試算した結果、相対的に日本人は欧米諸国と比べてコロナ抑制のためにより大きな経済的犠牲を払う覚悟があると言えそうです。
※顕示選好:意思決定者の選択した意思決定に表れる意思決定者の好みのこと。
また、日本国内でも同様に価値観の比較をしてみたところ、東京と大阪は約5億円に対して、鳥取と島根は500億円以上という結果が出ました。つまり、コロナ死者数抑制のために、大きな犠牲を払う価値観を持っている可能性を示しています。実際に鳥取県では、コロナによる累計死者数が5人という状況でGDPが5%(約1500億円)も低下しました。重症患者数が1桁という状況でも経済を大きく制限したことは、一歩引いて振り返ってみると驚くべきことだと思います。
それぞれの国や地域を比較すると、その違いがどこから生まれるかという疑問が生じてきます。イギリスも、日本と同様に死者数もGDPも小さく抑えることができる方法があるなら実践していたはずです。しかし、実際には医療体制の違いや行動制限による経済への影響、あるいはテレワーク対応可能な労働環境の有無など、多くの要因が関係しています。こうした人々の価値観の違いやこれらの要素は、国や地域による違いを説明する上でとても重要だと考えられます。
――先生の今後の取り組みについてお聞かせください。
私が個人でできることは、これまでの研究に基づく知見をまとめ、次のパンデミックに備えておくことです。これまでは分析のスピード感を優先して論文にまとめる時間が取れなかったため、昨年から地道に論文執筆を進めています。
すでに政府の中では、次のパンデミックが発生した場合の分析体制、情報提供体制、データ整備などについて議論が行われていて、私も意見交換会に参加させていただいています。パンデミックの状況下では、感染や経済への影響を把握し、リアルタイムにデータを取りつつ政策を話し合っていくことになりますが、これまでの分析の経験から課題に感じていることもあります。例えば、日々の感染者数などはすぐに確認ができますが、重症患者の年代別の内訳など少し詳しい情報を調べようとすると、公開が制限されていたり、公開されていても扱いにくい状態であったりします。データ整備、情報提供については改善の必要があると感じています。
また、金融政策の研究に関しては「金融政策をどう運営していくか」という根本的な問いに対して、継続して取り組んでいます。現在のインフレ上昇について、中央銀行の利上げの遅れが指摘されていますが、そのほかにも興味深いアングルはたくさんあります。パンデミックの研究を進めつつ、こちらも注視していきたいと思っています。
――KDDI Foundation Awardを受賞されたご感想をお聞かせください。
感染抑制と経済活動の両立というテーマは、経済学や疫学など複数の分野が交差する位置にあり、どの分野からもマイナーなトピックのように扱われてしまいがちです。2020年には興味を持つ人もいましたが、現在はこうしたテーマに取り組む経済学者はほとんどいませんし、疫学の分野に経済モデルを取り入れて分析する研究者もほとんどいません。このような状況の中で、研究を継続していると時折心細い気持ちにもなるので、今回の受賞は非常に励みになります。