グローバル化が進む中、海外で日本語を学ぶ人々も増加しています。一方で、海外の日本語教育の現場では、日本語教育教材が少ないことが長年の課題とされており、教材開発のリソースが求められています。ヨフコバ四位エレオノラ先生は、母国ブルガリアで日本語を学び、30年近くにわたり日本で日本語学習者の教育に携わってこられました。今回は、現在取り組まれている研究から、日本語教育教材の現状と課題などについてお伺いしました。
異なる言語の類似点、
相違点を探る
――先生の取り組まれている研究について教えてください。
研究分野でいえば、言語学および言語教育です。その中で現在進めているのは、「比較対照言語学」と「日本語教育に役立つ研究」という2分野です。比較対照言語学は、「比較言語学」あるいは「対照言語学」と呼ばれることもありますが、言語学の専門用語としては異なる概念として扱われます。比較言語学は、もともと同じ言語から派生した言語、いわゆる“親族関係”にある言語間の類似点、相違点を比較します。それに対し、対照言語学は“親族関係”にない言語同士を比較します。
現在、日本語とブルガリア語の対照が、私の研究の大きなテーマの一つになっていますが、この2つの言語は“親族関係”にはありませんが、両者には共通している表現形式もあります。例えば、「雨が降りそうだ」「雨が降るようだ」といった推測や把握を表す「モダリティ」という表現形式は、日本語とブルガリア語の両方に用いられています。しかし、ブルガリア語と親族関係にあるスラブ語族に属するロシア語やチェコ語、ポーランド語などには、同様の表現は用いられていません。なぜ、ブルガリア語にあって、ほかのスラブ語族にはないのか、日本語との類似点、相違点についての研究を進めているところです。
――では、「日本語教育に役立つ研究」とは、どういうものでしょうか。
長年にわたり日本語教育に携わり、現在も大学で海外留学生に日本語を教えていますが、どうすれば留学生の理解を深めることができるのか、その課題を解決するための研究をしています。特に、留学生から多く寄せられる質問に、日本語の助詞の使い方があります。例えば、「私は先生です」の「〜は」という助詞と「私が先生です」の「〜が」の助詞の違いを知りたいというものです。普段から日本語を母国語として話している人は当たり前のように使い分けているものですが、日本語学習の初級レベルの留学生にとっては区別がとても難しく、その違いをきちんと理解しないとうまく使いこなすことができないのです。
――ちなみに、「〜は」と「〜が」の違いはどのように指導されるのでしょうか。
簡単に言うと、「私は先生です」と「私が先生です」は文の情報構造が違います。どちらも1つの文章に「新情報」と「旧情報」が含まれていますが、伝えられる内容が異なります。
「私は先生です」という場合は、「私」が旧情報で、「は」のあとに説明が入ります。この部分が「先生」なのか「学生」なのか、あるいは「日本人」や「ブルガリア人」なのかなど、「は」で結ぶことで「私」に新しい情報が付加されるのです。一方、「私が先生です」という場合は、「私」が新情報、「先生」が旧情報になります。「先生」が誰だか分からないという状況で、「私」が新情報として付加されているのです。前者は職業に対する質問の答えで、後者は誰が先生なのかという質問の答えに対応しますから、疑問詞がどこに位置するかによって使い方が異なることを説明すると、留学生も納得してくれます。
国によって異なる
海外の日本語教材事情
――海外日本語教材の調査・分析に目を向けられた理由は?
日本語を教える立場として、教材作りにも興味を持ちました。世界にはさまざまなコンセプトで作成された教材があり、それらを比較・対照をすることで、どのような違いがあるかを知ることができます。
実際に調査・分析に取り組もうとした理由は大きく2つあり、そのうちの1つが来日する日本語学習者への継続学習対策です。自国で日本語を勉強し、基盤を築いてきた人が日本で継続学習をしようとする際、日本の教材と自国の教材に少しズレを感じることがあります。このズレを解明するために多くの国の教材を調べることで、日本語学習者が来日前に学んできた学習経路を把握し、今後の継続学習でどのような部分を補うべきかが分かってきます。
また、もう1つの理由は、将来的な日本語教材作りへのフィードバックです。現在、日本国内で使用されている日本語教材のほとんどは、独立行政法人国際交流基金を中心に策定された「JF日本語教育スタンダード(以下、JFスタンダード)」を基準に作られています。JFスタンダードは、日本語を通じての相互理解を目指し、日本語学習者が日本語で課題を達成する能力と異文化理解能力の育成をサポートすることを目的とした学習スキームです。一方、海外の教材はJFスタンダードとは異なり、それぞれのコンセプトに基づいて作られていますから、それらをよく分析することで、将来的な日本語の教材づくりにも役立てられるのではないかと思ったのです。
――実際の調査・研究は、どのように行われたのでしょうか。
大まかな流れとしては、①世界各国の教材や情報の収集、②収集データの分析、➂分析結果のデータベース入力という3つのステップで進めました。また、この調査・研究は、私を含め3人の共同研究で行っており、私は教材の中にある文法の提示方法を調べ、一人の先生は言語文化的な側面、もう一人の先生は文字語彙の観点から教材の分析を担当しました。
調査対象が広いため、助成研究期間の初年度はヨーロッパの地域、2年目はアジア、中東とオセアニア、3年目は北米の順に調査・分析を進め、また、3年目にはこれまでに調査した教材から数冊をピックアップし、日本語特有の「受け身」の学習について横断的調査・分析も行いました。結果的に3年間で目を通した日本語教材の数は1700冊余りになりました。その中で特に使用頻度の高いもの、特徴的だと思われるものをピックアップし、3人で分担してさらに詳しく分析を進めていきました。
海外教材の良いところを
日本の教材にフィードバックする
――今回の調査・研究で特に印象深かったのは、どのようなことでしょうか。
分析しながら実感したことは、国によって文法の取り上げ方が全く異なることでした。例えば、「受け身」の文法に関して、日本の教材(JFスタンダード)での「受け身」は、初級の後半もしくは中級で登場します。これは「受け身」文が日本語の文法の中でも難しいと考えられているからです。しかし、トルコ語の教材では、比較的早い段階で「受け身」が出てきます。なぜ、トルコ語の教材だけ「受け身」の提示が早いのでしょうか。少し意外かもしれませんが、日本語とトルコ語は“親族関係”にある言語であり、そのため、トルコ語が母語の学習者は、他の言語が母語の学習者よりも日本語学習に難しさを感じにくいと考えられるからです。母語の違いによってこうした違いがあるのは大変興味深い点でした。
また、使い分けの難しい「類似表現」の扱われ方は、日本と海外の教材で全く異なりました。JFスタンダートの日本教材では、「〜たら(例:雨が降ったらイベントは中止になる)」が導入されて、しばらくしてから「〜と(例:ボタンを押すとジュースが出てくる)」が導入されます。その後に「〜なら(例:行くなら私も行く)」、最後に一番理解が難しい「〜ば(例:聞けば教えてもらえる)」が教材の中で段階的に提示されます。ところが、大半の海外教材は、1つの課に類似表現がまとめて提示されていました。学習者の負担を考えた場合、段階的に学習して習得していくほうがよいと思いますが、実際、学習の間で時間が空いてしまったり、学んだ表現を忘れてしまったりすることもあります。そのために、海外では一度に提示して表現の違いを意識させるように作られているのだと考えられます。私の大学の留学生も、こうした背景から、授業でも「何が違うのか」と質問をしてくるのだと思います。
データベースを公開し、
世界の日本語教材づくりに貢献したい
――海外日本語教育教材の分析は、継続されているとお聞きました。
助成期間中に調査した教材の分析を継続しています。ヨーロッパ、中東、中央アジア、南アジアは分析を終えていますが、最も日本語教育が盛んな東アジア、北米、オセアニアは、現在も分析中です。また、これまであまり情報が得られていなかった南米やアフリカなども、チャンスがあればもう少しデータを集めていきたいと考えています。データベースがある程度完成したら、他の日本語教材作成に携わっている人たちにも情報を公開し、教材開発など何らかのお役に立てればと思っています。
――「比較対照言語学」の研究に関しては、いかがでしょうか。
日本語とブルガリア語の対照研究をさらに続けていきたいと考えています。日本語の「〜は」と「〜が」の違いのように、情報構造の分かりにくさは私の母語であるブルガリア語にもあります。母語は文法を意識せずに自然と使い分けてしまい、客観的に観察することは難しいですが、そこに目を向けて情報構造の研究を進めていきたいと思います。大学では日本語だけでなく、ブルガリア語を教えることもあります。自分の母語についてもきちんと文法の説明がつくように研究していかないといけないと考えています。
共同研究者と共に研究費を活用できるのが
大きなメリット
KDDI財団の助成制度は大学のホームページで知りました。ちょうど海外の日本語教材作りや、継続学習者の学習経路に興味を抱いていたタイミングで、助成制度の募集内容が自分たちの取り組んでみたい調査の目的と合致していたので、応募しました。
助成期間中は、本当に自由に研究をさせていただきました。自由というのは、研究のためであれば、用途を制約されずに予算を使えたということです。助成制度の中には、いただいた予算を共同研究者の研究費用に充てることができないものもありますが、KDDI財団の場合は、私も共同研究者も同じように研究を進めることができました。また、膨大な分析データのデータベース化にあたっては、他のスタッフの手を借りて入力作業を進めたのですが、スタッフに依頼する費用に活用できたこともありがたかったです。おかげでデータ入力の手間から解放され、分析に集中できました。
そして、助成期間が3年間と長期であることも、KDDI財団の助成制度の良い点だと思います。研究内容によっては1、2年では期間が足りないということもあります。3年という長い期間で研究できたことにも、この場を借りてお礼を申し上げたいと思います。