海上における携帯端末通信環境の実態調査

国立情報学研究所
学術ネットワーク研究開発センター

北川 直哉特任准教授

普段何気なく使っているスマートフォンですが、飛行機や船に乗ると利用ができなくなり、急に不便な思いをした経験は誰にでもあるものです。特に海上に出てしまうと通信手段がなく、この状況は小型船の海難事故における人命救助においても、大きな課題となっています。今回の北川直哉先生の研究は、海上という情報通信の未開拓な環境に目を向け、既存の携帯端末の利活用の可能性を探るものです。

陸上では当たり前の通信が、海上ではできない。

--先生の研究されているテーマについて教えてください

助成対象となった研究のテーマは海上と船でしたが、自分の研究テーマは、インターネットを使ったさまざまなネットワークシステム、それからセキュリティ対策などが専門です。

私は工業系出身でもなんでもなくて、大学生ぐらいのときに初めてネットワーク機器、サーバ機器に触れました。それが自分の意図通りに動いた時にはうれしくて、もっと深く関わっていきたいと思うようになったのです。実際の機器に触れた研究をしたいという思いが強かったので、身近な機器を運用に活かせるような技術開発にフォーカスを当て、これまで研究を続けてきました。

--その中で、海上と船に目を向けられたのはなぜでしょうか?

今は、誰もが当然のようにスマートフォンを持っていて、陸上でなら世界中どこでも使える環境になっています。ところが、飛行機や船で陸上から離れると、途端に使えなくなってしまいますよね。
最近は飛行機の中でもWi-Fiが使えるようになっていますが、船の場合、海上を進んでいくとスマートフォンの電波が届かなくなってしまうのです。大型客船は飛行機と同じように衛星回線に接続するためのWi-Fiを備えているのですが、ほとんどの船舶は通信環境が整っていません。
この普段は当然のように使っているけれど、ちょっと離れるだけで全く当たり前でなくなってしまうところに興味を持ったというか、そこでは絶対に困っている人がいるはずだという思いがあり、海上と船をテーマとして取り上げることにしました。

「私たちが当たり前に使っている技術は、少し環境が異なるだけで当たり前ではなくなってしまいます。特に海の上では困ることがあるのではないかと興味を持ったことが、この研究を始めるきっかけでした」と、北川先生。

小型船舶には安全確保のための通信手段がない

--実際、船舶の通信状況はどのようになっているのでしょうか?

従来、海上での通信では、電波の伝搬距離が重視されていて、VHF帯の周波数を使用するAIS(船舶自動識別装置※1)で船舶の位置や簡単なメッセージ通信を行うシステムや、衛星通信を利用した通信手段が主として用いられます。ただ、AISの機器は大変に高価で、大型船舶への搭載は船舶間の安全確保のために義務化されているものの、漁船やプレジャーボートのような小型船舶には搭載義務がありません。つまりAISは、事故件数の多い小型船舶の安全確保には利用されていないのが現状です。

※1:AIS(船舶自動識別装置)
船舶航行の安全性向上のため、航海情報を定期的に送受信する船舶用無線装置。船名、位置、針路、速力などの動的情報を2-3秒ごとに自動的に発信し、陸上側の海岸局でそれを受信して、船舶の安全かつ効率的な運行を図る航行支援システム。

--小型船舶の事故は多いのですか?

海上保安庁の発表によると、令和2年度に発生した船舶事故のうち、小型船舶による事故が全体の約8割で、この傾向は、過去5年以上にわたり続いています。
また、海上保安庁では、船舶事故で海中転落者がいた場合、生存可能時間などを考慮して事故発生から2時間以内の情報入手を目標としているのですが、小型船舶はAISすらを搭載していないことが多く、正確な位置や状況を迅速に知らせる通信手段が確立されていないと言えるでしょう。

--それだけに、何らかの通信手段を確保できると良いわけですね?

そうです。ただ、小型船舶が大型船舶と違うのは、大型船舶が何百kmと離れて大陸間移動するのに対し、小型船舶は陸地からたかだか数十km以内のエリアをずっと航行しているということです。ここで、陸地からの距離が近い近海エリアでの通信環境はどうなっているのかと興味がわきました。

一方、陸地の電波がどうなっているかというと、通信事業者が発表している電波の通信エリアマップを見ると、海岸エリアの基地局から電波が海側にも向けられていて、図1のように、結構な距離まで電波が発信されています。そこで、陸に近い近海エリアであれば、陸上の携帯端末の電波を活用できるのではないかと考えたわけです。

図1:通信事業者の発表している通信エリアマップ(東京湾付近 au 2021年6月現在)

ただし、陸上のサポートエリア内であっても、人の多いところでは速度が遅くなったり、田舎に行くと電波状況が悪くなったり、通信状況には違いがあるものです。海上はそもそも未知のエリアですから、サポートエリアよりも通信できる範囲が広いのか、狭いのかもわかりません。それで、単にエリアマップの電波状況だけでなく、実際に通信を行ってみて、通信できる品質が確保できるかどうかという段階から調査をすることにしたのです。今回の共同研究者である大島浩太准教授の所属する東京海洋大学が、東京湾エリアに実習船を持っていて、我々にはその船を使って定期的に計測が行えるという強みもありました。

--海上で通信できることで、どのようなことが可能になるのでしょうか?

例えば海難が発生した場合に、その乗組員が所有するスマートフォンから、陸地にあるサーバへ随時詳細な位置情報を送信することができます。また、生体センサ等と連携して、生体情報も合わせて送ることもできるでしょう。また応用として、海難に遭った乗組員の場所では通信環境が悪かった場合でも、他の通信手段(Wi-Fi電波等)が届く範囲内を運航する他の船舶に情報が伝達できれば、海難事故の情報を代理通報してもらうことも可能になると思います。

通信がつながることで救える命があります。だからこそ、本当に海上での通信ができるのかを調べてみる必要があると思いました。通信できれば、本人のスマートフォンからの通報だけでなく、代理通報システムなどにも応用でき人命救助に役立てていくこともできます」と、北川先生は携帯端末電波の可能性を話す。

携帯基地局の電波は、どのくらい使えるのか?

--助成期間中に、どのようなことが行われたのでしょうか?

今回の調査・研究では、3G(第3世代移動通信)、LTE(Long Term Evolution)の各通信環境の実態を調べることにしました。
1年目は、実際の調査に使うためのアプリの開発と、船に設置した端末とサーバ間を通信するシステム作りから始めました。アプリはアンドロイド端末に搭載していますから、見た目は一般的なスマートフォンと全く変わらないですけれども。

アンドロイド端末を船に取り付け、GPS情報を使って位置を測位し、電波強度とどの基地局の電波を受信しているかという情報を約5秒に1回の頻度で取り続けます。そして、取得した情報を5回分ずつまとめてサーバに送り続けるというのがシステムの基本動作です。計測中のデータはアンドロイド端末のストレージにも記録として残し、万が一サーバ側で情報を受信できなかった場合でも、端末内の記録で後から確認できるようにしました。

--調査に当たって、どんなご苦労があったのでしょう?

開発したシステムで実際に調査を行う際、課題となったのがバッテリーの問題でした。調査する端末を取り付けるのは東京海洋大学の実習船で、東京湾―浦賀水道を長いときには1カ月以上かけて航行します。出航した後は我々の手の届かない場所に行ってしまうため、端末が電池切れを起こさないようにしなければなりません。そこで、とても原始的な方法ですが、電源が確保できない場合には端末に給電し続けられる大きなバッテリーを取り付け、それを濡れないようにキッチン用のフリーザーバッグ(食品保存用袋)に入れてガムテープで船にベタッと貼り付けることにしました。この調査・研究では、どこの家庭でも使っているような保存バッグが大活躍でした(笑)。システムというと難しい印象ですが、実際はそういう泥臭いことをしていたりします。

東京海洋大学の実習船に設置されたアンドロイド端末。

--調査によってどんなことがわかったのですか?

アンドロイド端末は、海に近い船のヘリ側と船の真ん中の2箇所に設置して計測しました。海上と基地局の距離もそうですが、電波には指向性というのがあって、その基地局がどちらに向けて電波を発信しているかによって電波の届く距離が全然違うことがわかりました。

また、往路と復路では船の向きは逆になりますが、設置した端末の位置は変わりません。すると、端末が基地局のアンテナに近い側にあるのか、それとも反対側にあるのかによっても電波の強度に違いがありました。船に使われている金属は厚さがあるので、金属の壁が邪魔をして電波が弱まることや、太い柱1本でも電波の強さに違いが出ることがわかりました。

実際に調査をしてみて実感したのは、予想以上に通信できるエリアが広かったということです。もともと通信事業者のエリアマップに基づいて海上の通信エリアも想定していたわけですが、実際に計測してみると、マップに記されているよりも広い範囲の通信レベルがかなり強く、陸地から10km以上離れても問題なく通信できていた時は、ちょっと驚きました。

東京海洋大学の所有する練習船にアンドロイド端末を設置し、東京湾-浦賀水道上における3G/LTEの電波強度と通信状況を計測。「予測よりもかなり広くつながることがわかり、緊急時の通報システムへの応用の実現可能性が高いことが確認できました」と、北川先生は当時を振り返る。

--2年目はスペインで調査を実施されたのですよね?

東京湾での調査を発表したところ、「東京湾は通信品質が良さそうなので、もう少し品質がシビアなエリアや、船の往来が多いエリアで調査して比較してほしい」という要望がありました。それで調査の対象として選んだのが、バルセロナとマヨルカ島の往復でした。どちらも貿易用の大型船舶が多く、さらにマヨルカ島はリゾート地でもあるため、小型船もたくさん航行します。ちょうどその年に東京湾の調査をヨーロッパの国際会議で発表することになっていたので、会議のあるドイツからそのままスペインに移動することにしたのです。

調査に利用したのは、2つの都市をまたぐ運行船です。船は深夜に出て早朝に着くもので、最大で150kmくらい陸地から離れます。運行船の往復で同じ部屋を確保し、電波が通りやすい窓側に3台の端末を設置して計測しました。こうすれば行き帰りで船の向きが変わった時のデータも同条件で取ることができますから。
また、海外の場合は、携帯事業者によって電波が変わるため、現地で売られていた3種類のSIMと日本で手に入れた海外旅行用SIMを、それぞれのアンドロイド端末に差して比較するようにしました。

実際に計測してみると、陸地から距離の遠くなると部分的に電波強度が弱まるエリアのあることや、運行船の往路と復路で端末の向きが逆になると、受信する電波強度が大きく異なることも確認できました。
また、異なる端末、通信事業者によって計測結果に違いがあり、これは通信事業者の基地局の配置や数、海外事業者との連携関係に起因するローミングの可否が結果に表れていると考えられます。

これらのことから、陸地から10km程度の距離の海域では高速データ通信を利用できる可能性があること、また、離れた海域での通信は利用する通信事業者によって状況が大きく異なることがわかりました。さらに、海外においては、自分の契約する通信事業者と連携する海外通信事業者がサービスを提供する場合もあることから、事業者間のネットワーク共有状況の把握や、eSIM(端末一体型のSIM)等の契約切り替えなどが行える仕組みの導入なども必要だと思いました。

スペインのバルセロナとマヨルカ島の間を運行する船で調査を実施。室内の窓のそばに異なるSIMを差したアンドロイド端末を置き、往復で計測を行った。
スペインでの計測では大変な思いをしたと北川先生は笑う。「スペインでの計測中、往路は晴天でしたが、復路はすごい嵐になりました。8時間くらいずっと揺れっぱなしで、陸に戻ってもしばらく揺れている感じがしましたね。しんどかったですが、結果として凪の海と荒れた海の両方でデータを計測できたのは良かったかなと思います」。

携帯基地局の電波活用の可能性

--海上でも通信がつながると、様々な可能性も見えてきますね。

わかったことで一番重要だったのは、想定以上にかなり広いエリアで、ある一定以上の水準の通信が行えるということです。これは今回の研究の目標であった「小型船の人命救助システムにも十分利用できる」ことが確認できたという点でとても意義のあることだと思います。また、陸上に近いエリアでは、電波がつながるだけでなく、かなり高速で地上と遜色ないレベルで通信ができるので、人命救助だけでなく、さらにいろいろなものに応用することも考えられます。

今後の展望の話になりますが、例えば自動運航や遠隔運航の技術が次世代の船舶運航として注目されてきています。今回の調査結果でわかったように、陸地に近いエリアなら高価な船舶用の通信網を使わなくてもかなり安定して通信ができるので、その技術を活かすことができるのではないかと思います。
また、遠隔監視については、船舶から陸地に映像伝送して運航支援するという方法が船舶業界で提案されているのですが、これまでの調査結果から、比較的通信状況が良好な陸地に近いエリアでも、海上から動画を送り続けるのはさすがに難しいと感じています。ただ、特徴のあるところを切り取って、データを圧縮して陸地に送って監視する方法であれば活用が可能ではないかという感覚は得ています。すでに映像から物体検出を行い、伝送すべきデータ量を大幅に削減する手法も開発しました。

とにかく、簡易版通信網として通信事業者のモバイル通信網を使うことができれば、とても安価に通信を行うことができますよね。しかも、誰もが持っている端末が使えるので、新たな設備投資をしなくても、これまでできなかった船との通信ができるようになるわけです。海上における新たな通信の可能性が見えたと感じています。

--これから、どのようなことに取り組みたいとお考えですか?

今回の調査・研究についていえば、予想以上に広いエリアで携帯電波による通信が可能とわかったとはいえ、陸地から遠いエリアでは当然つながりません。しかし、陸地とはつながらなくても、船と船の距離はそれほど離れていない場合もありますから、その点に着目した研究をしていきたいというのはあります。

例えば、船と船、あるいは船と海上に浮かぶブイなどに、なんらかのセンサーや通信装置を設置すれば、携帯電波の通信状況の悪いエリアにいても他の船との相互通信ができる可能性が高くなりますよね。

実は、農業や酪農のIoT分野ではすでにそのような研究が始まっていて、屋外や動物の体にセンサーを取り付けて、電波で通信をするという方法がたくさん提案されています。ここで使われているのは携帯電波ではなく別規格のもので、2kmほどの距離を飛び、低電力で長時間駆動できるため、非常に扱いやすいという特徴があります。
この電波をスマートフォンと連携するようなセンサーや装置を海上に設置できれば、携帯電波の届かないエリアの通信も補うことができます。また、携帯電波の通信エリアとの相互通信ができるようになれば、海上での通信の安定性も信頼性も増し、非常に面白い展開ができるのではないかと思っています。

今回の調査・研究は、船舶事故による人命救助という観点から海上での通信をテーマにしていますが、もともと私は船舶だけでなく、セキュリティやネットワークシステムの分野で、「人が苦労していることを楽にしたい」「誰かが困っていることを解決したい」という思いで研究に取り組んできました。これからも、人が幸せになれるようなテーマを意識して研究を続けていきたいと思っています。

「携帯電波だけでなく、海上の通信エリアが広がっていけば、さらに面白い展開が期待できますよね。これからも人の役に立つ研究を続けていきたいと思っています」と、北川先生。人が幸せにつながることが、先生の研究の原動力となっている。

調査・研究を対象とした助成制度が少ない中、
一から始める調査に助成していただいて助かりました。

助成制度では、バックグラウンドとしてちゃんと環境が整っていて、そこになんらかの新しいものを作りましょうという場合に受けられるものが多いのです。KDDI財団のように、調査を主眼に置いた助成制度はほとんどなく、その点が私たちのやりたかったことともマッチしていたと思います。もともと通信ができるかどうかもわからないところから調べていくという調査・研究でしたから。
また、助成制度によっては「この研究の、この用途でしか使えない」というものもあるのですが、KDDI財団の場合、調査・研究の中での資金の使い方の自由度が高く、助けていただいたなと思っています。

twiiterfacebookはてなブックマークLINE